藻塩草紙(徒然なるままに)


2024年06月26日(水)
物言わぬ古木
 400年ほど経ったこの寺には、
それはみごとなコウヤマキが一本立っていた。 この古木の前に佇みながら、この寺の先師方のおもいに触れるような気がして、おもわず心が打ち震える。 朝に夕に、この古木をねぐらにしている小鳥たちの元気なおしゃべりを耳にしていると本不生の新たなるいのちの歓びにわく思いがした。
 あれから13年。平成23年の東日本大震災の激震はこの寺にも及び、未曾有有の苦境に陥った。大地震は地域社会をも揺るがす。
そのとき、寺の主は檀信徒や寺のはかりしれない被災の現状をまのあたりにし、よほど思い悩まれて、秘かに寺を辞し、去ってしまった。
 主なき寺は寂しい。実に寂しい。
 物言わぬ庭木だが、あれほど花々で賑わう花の御寺も、このときばかりは、悲しみを誘うばかり孤独な花をたくさん咲かしていた。
 それ以来、不思議なことに400年の時を経て寺とともに生きてきたであろう古木が、一本、また一本と、主なきあと、まるで役割を果たしたかのように、突然、枯れはじめたのである。松の老木も、百日紅の老木も、銀杏の木も・・・歴代先師が大切にしていたであろうかけがえのない草木が一つ、また一つと枯れていくのをまのあたりにしている。ああ、主がいないとはこのようにも悲しいことなのであろうのかと、胸が塞がる思いがする。
 最初にであった、このみごとな、すっくと聳え立つコウヤマキも、やはり、あれから少しづつ枯れだしている。
 何度も、腕利きの庭師達に相談したが、どうにもも、この哀しみを止めることできなさそうだ。

  朝な夕な、この古木にむかい、心の手を合わせる。ありがとう ありがとう といいながら、仰ぎ見る。 
 それにしても、日々痩せ細る姿に涙があふれる。
 今日はちょうど雲間から朝日がさして古木がまぶしかった。
 黙して語らぬ古木の哀しみを誰も解せぬのだろうか。愚かなものは、ひとり人間だけなのかもしれない。古木をみてそう思うのであった。
2024年06月26日(水)
かけがえのなきひととき
五月雨の 初めや終わりや お香盛り

 少年期に佛教童話全集に触れて、仏道に対するこころざしが芽生えて、仏教の大学に進学したのだが、実践仏教における声明はこれまで素養が皆無で、全くわからないものであった。或る高徳の僧がいることを教えられその門を自分で叩くよう促され、天命の邂逅に導かれた。 この高徳の僧に「仏に仕える機縁は希有のものである。まず、寺に随身し、学びの足場を得るように。」と、この僧が生まれ育った深川の或る真言宗のお寺を紹介されて、その門を叩くことになった。18歳の頃であった。 紹介を受けて、初めてこの寺に挨拶に伺った。「挨拶はいいから、忙しいので、塔婆の下書きを今してくれないかね。」といきなり6尺の塔婆ひと束をどんと置かれて、硯と墨と筆が用意された。(後でわかったことだが、檀家さんが900戸を超えていた。)実は、これまで塔婆を書いたことは全く無い。どうしてよいかかわからないでいると、この寺の若住職が「な!なんんだあ?おまえ!塔婆も書けないのかあ?」「ハイ、書いたことありません。」「なんだなあ。塔婆書けないなんて、そんなあ、なんで、こんな役立たずなんぞ送り込んできたんだ。一体どうするっていうんだよ。ったくー、何考えてんだか。」とことばを荒げて怒りだした。なんとも所在が無いので黙っていると、「しょうがない!法事があるから、二階の本堂に上がって、コウモリをしてきてくれ。」(ん?コウモリ?一体何ことだ?)と、グズグズしていると、「なんだあ?おまえ、香盛りもわからんのかあ?おまえ、本当に寺の子なのか?まいったなあ、一から教えないと使えないんだ。このくそ忙しいのに・・・こんな何もできない学生なんぞ預かれって言われても全く迷惑千万だろう。いらないなあ、こんな者!」そう言って本堂に行ってしまった。 しばらくして戻ってきていうには、「おい!お前!ここに随身したいんなら条件がある。卒業までの4年間おいてやるんだから、寺からの手当ては一切無い。もちろん大学の学費は自分で工面しろ。そして、卒業したら、一年間はこの寺でお礼奉公することが絶対条件だ!親と相談して来い。」 田舎に戻り、親にこの話をしたところ、「そらみたことか!私のいうことを聞かず、そんな仏教大学に進み、得たいのしれないよくわからん寺の門など叩いて、住み込んでなおかつお礼奉公だなんて、今時そんな話あるかい!お前バカだったなあ。これじゃ、人生全く狂ってしまうだろうが・・・!だめだ、そんなところに行くな!一年浪人したと思って受験勉強して、国立大学を受け直せ。」と、父は本当に落胆してしまったようだった。 あれから、57年経った。私はさまざまな経験を頂いて、今、自坊で五月雨の音を聞きながら、静かに香盛りをしている。
 ふりかえってみるに、大寺に育った母の縁で家族してこの寺に入寺したものの、父が教諭を務めながらの在家であるということもあって、私は寺のことなどはほとんど無教育に育っていた。

 それでも 小学校4年生のときに、当時出版されたばかりの大法輪閣の『佛教童話全集』十二巻を、その頃、住職になるための夏休みの休暇を利用して修行に出ている父から、突然、送られてきた。この『佛教童話全集』十二巻に触れて、わたしの心は一変した。その当時、この町の環境になじめなかった私は学校に通うことが苦痛で、ほとんど休みがちの状態にあった。もちろん学業成績は目も当てられないほど惨憺たる有り様であった。童話とはいえ、漢字のほとんどが読めないから、読むにかなり難儀していた。当初せいぜい挿絵を眺めるぐらいが関の山であった。だが、その絵に引き込まれ、読み進めるうちに仏(ほとけ)の教えというものに光りを得たように心が清々し、非常に興味が湧いてきて、どうしても、読み切りたいという強い衝動が働いていた。そして、なんと、土日の2日間で読み切ってしまった。そのとき、私の心は一変してしまった。そう!見えないものがはっきりするように心の視界がぱあっと明るくなっていた。病弱な母とともに引きこもりがちであったこころに法燈が灯ったのだと思う。(私は生きていていいんだ。生かされているいのちなんだから。そうか、私はほとけの弟子になるために、この世に生かされていんだ!)そのような思いが心の奥の奥の方から、強く湧いてくる不思議な感覚をいまでも覚えている。この瞬間から、あれほど苦手だった学校や学業や人とのコミニケーションも苦にしなくなった。相変わらず鈍重な私ではあったが、自分は自分だ、という感覚が蘇り、初めて生きた心地がした気がする。
 しかし、仏道修行の志を立てたようだったが、一体、どこに、どのようにして進めばよいのか、皆目見当がつかなかった。小学5年頃から、しきりに「仏弟子になるために修行に出たい。」と、父や大寺の伯父に、何度も何度も尋ねていた。が、どうしたわけか、このとき、歓んでくれると思った父や伯父からは、勉学放棄と思われたのだろう、「無住になりがちなこの寺だけで暮らすことは難しい。おまえは、先ずは小中高を経て大学に進学し、よい就職先を見つけて、自分の力で生計をたてられるよう自立の道を歩むことが仏道修行の第一歩だ。それからでも、坊主になるのは遅くはない。」と跳ね返されてしまった。

 もちろん、もともと学校嫌いできた私に一般大学に進学できるほどの力量は初めから無いと自分で思い込んでいた。他の道を歩むしかないと。(団塊の世代であったので受験戦争の時代であった)

 それでも、親の意に反して、巣鴨にある仏教系の大学に進学することを選択した。

 しかし、仏教の大学とはいえ、学問の場であるから、子どもの頃に童話を読んで描いていた修行の場とは全く異なる。代々続いてきた大寺の跡継ぎが大半の学生であったが、彼らは寺の子達なので実践仏教などでは経文や陀羅尼を唱えることなど幼少の頃から身についているので、私のように無教育のものとはスタートラインが違っていた。
 仏教系の大学に進学したものの、大きなショックと壁はまずこの無知なる自分であった。次にショックなことは、私がこの大学に進むならせめて文化系にしてくれると父に懇願されて、文学部哲学科宗教学を専攻したのであるが、指導教授は東大の宗教学でも教鞭を執っていた教授で、その宗教学のレベルは世界的にもトップレベルではあったが、想像もしなかった『仏教とキリスト教の比較研究』で著名な学者が主任指導教授で、彼のゼミに英語やヘブライ語で聖書を読むこなどを行っていたのである。 仏道修行を志しては見たものの、この大学で自分はお門違いだったことに大きなショックを覚えざるを得なかった。だが、この教授の主張する「仏陀の教えを原始仏教と呼ぶ輩を許せない。われわれは仏陀の教えを根本仏教とする。」という。その通りであるなあとは思っていた。しかし宗教学という学問の研究室だったのであるから愕然としたことは確かだった。 
 研究室においても、また、組み込まれていた実践仏教の場においても、自分のこれまでの了見がいかに狭く、無知で、しかも、無能であるか!ということをいやっと言うほど知らされたのである。
 大学入学した夏休み、実践仏教に全くついて行けないので、田舎で父に相談し、大寺の伯父に相談したものの、どういうわけか、また撥ね除けられた。 どうしてもお経を学びたいなら自分でこの方の門を叩けと突き放されて、東京都清瀬市在住の高徳の僧をお尋ねした。 そして、この老僧との邂逅が、仏道を歩む最大の転機となった。当初、この大阿闍梨をお尋ねしてご教示賜ったのはわずか10日ほどではあったのだが、それ以降の私の人生の全ての教導の第1原因となっている。すべてのものの法燈を点してくださったのである。般若理趣経の伝授、真言声明・真言加行・灌頂、便壇、雲傳神道、密教観法、とくに真言以外のさまざまな教訓や或る霊的教師への引き合わせ(この教師との邂逅が更に大きな転機となった。)による導き、更には、母への孝養のためにと生きる喜びと病者加持の秘法などかぎりない教えと導きを賜って、今日までの私の活動の心の核となっている。 その老僧から、僧になるなら、寺に住み込みながら勉学に励みなさいと、深川の某寺院に随身できるようお手配いただいた。 とはいえ、この頃は大学に入ったばかりで、しかも、前述のように寺のことは全く何もわからずに育っていたので、さあ!大変であったのだ。

あめつちに 遍照金剛 ただひとり


五相成身観という観法によって、釈迦牟尼仏が遍照金剛光り輝くものそのものとなられました。

そして、あらゆるいのちは光り輝けるものの唯一の顕現であることを指し示された。

これをまのあたりにしたことがあります

なむやなむ 雪こうぶりて 黒不動

 半田山の手前に黒山という清浄なる山があります。どなたも気づいておられぬようですが、
この山は霊妙不可思議なる身色青黒なる大聖不動尊に思われてなりません。
アルナチャラのメルカバなる三角火輪。彼の大聖不動明王の御座します山と信じて疑いませんのですが・・・・

 この間、「古老の話だと、あの山を背にした手前、樹々の茂るあたり古い阿弥陀堂があった。」と聞きました。なるほど、それで、ここからみる黒山の方角が気になっていたのだと得心しました。半田山やその後ろの萬歳楽山よりもずっと手前七つが森の中にこの霊妙不可思議なる「黒山」われわれに何かを語りかけているように思われてならないのです。

まだ桜が咲き残り 桃の花が満開の桃源郷気温が29.2度季節外れの暑さに耐えかねて
田起こしも 田の水張りもまだなので草むらの露に隠れて涼をとるカエルがぴょこぴょこと 草むらからでてきました

遠くの森で鳴いていた鶯の声も
だいぶ近くなっています。

ときおりキジの声がケーン、ケーンとして季節外れの真夏日です

法圓寺には創建のときからの柘榴の木がある。
芭蕉翁追善興行の俳句にもときどき読まれることもある。
とげのある木を嫌う庭師が入ってからというもの、この柘榴の木処分されるところだったが
寺にとって大事な木だから残すように頼んで移設してしてもらったが、老木なので数本枯れてしまい
今では2本だけかろうじて生きている。
今朝、何気なく、棘のある木に葉が燃えだしてきて、おお!今年も元気だねと声をかけてしばらくみていると
柘榴の木の根元で角を生やした幼子が楽しそうにダンスをしている。
柘榴の木の妖精か?でも、柘榴は朱のあざやかな花を咲かせるし、その実は「屏風の影にお姫様千人 なーんだ?」
と昔からクイズにもあるように実には綺麗な赤い粒がたくさんあるから、妖精にしては、幼児とは・・・不思議に思って、調べると、
鬼子母神を祀る寺に柘榴があるという。
古今東西を問わず柘榴は子孫繁栄、子安安寧をもたらす木であると伝えられているという。
神話や伝説ばかりでなく、実際にこの寺にまだ生きている柘榴の木には子どもを守護する霊力があるのだろうと思われる。

朝日さす 柳若葉の いのち萌え

山里の桜や桃の花が満開のころ境内では柳の若葉がいのちの光を浴びて耀いています

春やはる ひたすら あるじの 帰り待つ

おお!なんとけなげなことでしょう。

昨晩みた夢は色鮮やかな忘れがたい夢だった。

 山々をかき分けようやく辿り着いたところに、木々に埋もれた小さなお堂があった。
誰もいない参道には五色の幡がきらびやかに風になびいて輝き、かすかな鈴の音が辺りを清らかにしている。
(こんな人里離れた山奥に、まさか、こんな寺があるとは思いも及ばなかった。)
お堂は戸があけ放たれていて風通しがよい。これからなにか厳かな法要が始まるのであろう。
お堂の中は金色に輝きその光りが御堂から漏れている。その輝きはこの世のものとは思えぬ美しさであった。
一体、ここはどこなのだろう。このお堂の中は、どうなっているのだろうと、邪魔にならないようにそっと近づいてみた。
 修法壇がある。その壇の四方をやはり小ぶりの五色の幡が色とりどりにはためいている。(施餓鬼会であろうか・・・)
 しかし、中心より発している強力な金色の光り輝くものの正体はわからなかった。不思議に、そこから泉が湧くように、光が懇々とわき出出ているのであった。
 しばらくすると、お堂の右手の上のほうで、人々の声がする。そちらの方へ目をやると、このお堂の裏山の右手に庫裏のようなものがある。庫裏の明かりがともされ、シルエットのように障子越しに人々の影が映りうごめいているのが見えた。
(ああ、そうか、もう夕暮れ時なのだなあ)と思いつつ、しかし、こんなところに人々が暮らしているとは・・・と驚くばかりであった。
 そこから、声がする。
 「ああ、よかった、よかったね。これでようやく、私たちも、この寺にずっとお仕えしてきた甲斐があったというものです。」という話しであった。
 人々の声の調子から、彼らが嬉々としていて、明るい雰囲気であることがうかがえる。

  はて、この人達は誰なのだろうか。彼らはいったいどうしてここにいるのであろうか怪訝に思ったが、ふと、どうも、この人達は代々この寺を護ってきた僧侶や寺族達一族であるに違いないと思えた。

 (そうか、ここは、古びた寺ではあるが、おそらく、昔この寺にで住んでいた人たちが、こうして、今もやはりここに来て祈りをささげているのであろう。)と、一人合点していた。

  「さあ、さあ、支度が整いました。みんなで降りていって、地上の人々に(ン?)ご加護を賜りますよう、張り切ってご本尊にお祈りを捧げましょう。」という声がした。どうやら、あの庫裏のほうから、こちらのお堂のほうへ、石段を下りて来て集まるらしい。いったい、どんな方々なのだろう?
 そう思った途端、眠りから覚めてしまった。

 極彩色の夢を見るのは珍しい。しかも、かなり強烈で印象的で、その夢の記憶は数日間残っていた。
 いまでも、あれは夢であったが、実在している感触が残っている。
 この夢には何か如来性からの深い思し召しがあるのであろう。

 この夢を見た日は、東日本大震災以降、墓終いされたままであった、或る寺の歴代住職や寺族を合祀する永代供養墓を建立することがようやく決まった日であったのだ。
 
 大学の学生の頃、施餓鬼会の手伝いをしていた或る大寺院の老住職が、何気なく聞かせて下さった話しを思い出す。
 「私はね。死んだらこの寺の山門近くの参道側に埋めてほしいと思っているのだよ。それはね、この寺を訪れる人々の安寧をずっと祈っていたいからなんだよ。」
 この住職は密教の法義などに全く無頓着であ、ありのままで屈託なのない優しい方であったが、眼光鋭く、ものごとの真実をカッ!見据えている方であった。
 この方はきっとそれをあの世に行っても確かに果たしておられる気がしていたが、人生の一大事は消えるところには無いもののように思われてならない。

2024年05月20日(月)
鳴く鳥に 仏法を聴く 奥の谷

鳴く鳥に 仏法を聴く 奥ノ谷

  この5月20日、夕刻、散策して西山の麓あたりまでくると、山の方から、まるでわたしを招くかのように一羽の鳥の声が先ほどから鳴いている。はじめ、奥の方から響いていたが、側に来るので、その声についていき、石段を登る。

 分かれ道に出ると「熊出没」の大看板があった。

 先ほどの鳥が、今度は、左下の奥のところに移動し、しきりに鳴いている。(そちらではない。こちらだこちらだ。)といわんばかりに・・・。鳥の声がする方へ行く。すると更に移動して(こちらだ、こちらだ。)と導く。程なくして、鳥は少し高い木のてっぺんに留まり、鳴いている。それでこの鳥の姿を初めて目にした。彼の鳥は(ここだ、ここだ)といわんばかりにひときわ調子のよい強い声で鳴いている。

  その声にひかれ、側まで行ってみる。木立の間から古びた御堂の屋根が覗いてきた。

  この鳥の声と古びた御堂の屋根とを見て、ふと思い出すことがあった。それは、かつて、那智大社をお参りしたときのことであった。早朝、宿から出ると、雨降りの中あまりにも強くなく一羽の美しい鳥の声がするので不思議に思い、その鳥の声に導かれて辿ってみると、そこは、那智大社本殿に辿り着いた。その本殿の軒先でその鳥は鳴いていたのであった。そして、お神楽が聞こえてきて、こんな朝早く、もうこの神社ではお祈りがはじまっているのか。そのリズミカルなトトトントトトントトトンという音にひかれて近づくと、神社はどこも閉じられていて大木の下にあるトタン屋根の物置にしたたり落ちる雨だれの音ではあった。それとは気づかず、てっきり、お神楽の舞を舞っている巫女達の美しい清浄な姿を見ていたのである。

不思議な出来事であった。

  このときと同じ雰囲気であった。

  何か不思議を感じて、木立の間から覗く古びた御堂をお参りしようと、崩れかけた石段を登る。

  辿り着くと、その鳥はまだそこにいて、しきりに法を説くように鳴いていた。

  朽ちかけた御堂の古い額にはかすかに「観音堂」と書かれてある。

(自坊に戻って調べたことだが、この御堂は古く弘法大師が湯殿山参拝のおりにこの寺によって聖観世音菩薩像を刻されたという伝えがあるという。湯殿山は法圓寺創建の僧の出身の寺、注連寺がある。浄土宗のこの寺と弘法大師とのご法縁も「むべなるかな」と深く感じ入った次第である。)

 参拝をすませ、振り向くと、先ほどの鳥は去ったのであろう。声は無く、遠くでかすかに鶯の声がするのであった。

 さて、石段を降りようとして、ハッとした。石の段下に、古びた山門がみえる。

 はて?この山門の見える景色はどこかで見たことがある。ただ、異なるのは二階屋根の山門ではなかったが、御堂を包む山全体の雰囲気があまりにも似ている。

 それで、よくよく確かめてみた。確かに、そうであった。この門はあの不思議な夢に現れたあの一遍上人の生まれ育った道後温泉奥谷にある古い宝厳寺の山門のような佇まいのようでもある。

  実は、以前、まことに不思議な夢を見て目覚めたことがあったのである。

 その夢は、右手に松の山、左手に竹が群生した山間の道をしばらく降りて、確かこの辺りまで降りてくれば寺があるはずなのだがと思いつつ、山奥から降りていた。すると、山間のうねりかけた道の先に寺の山門の屋根が木々の間から覗きみえ、(ああ!やはり寺があるなあ。おそらく左手の山のの向こうに寺があるのだろう)そう思っていると、その山の影から子を呼ぶ母親の声がする。「しょうじゅまるや、しょうじゅまるや」と何度も呼んでいる声がする。(はて?こんな山奥で迷子にでもなったかな?)近づくにつれその声は強くはっきりと「しょうじゅまるや しょうじゅまるや」聞こえて、ハッと夢から覚めた。(夢であったか・・・それにしても、しょうじゅまるとはいったい誰なのだろう?)耳に残ったしょうじゅまるをネットで検索してみると、驚いたことに一遍上人の幼名が「松壽丸」という。一遍上人は小生の母方の家系図に記載されているご先祖のひとりであり、愛媛の河野一族の末裔である。

夢で見た寺を、ネットで調べると火事で燃える以前の道後温泉にある宝厳寺という寺のことであった。一遍さんはこの寺で生まれ育っているらしい。小生、このことは夢で見て調べるまでは、全く知らなかったのである。不思議でならなかった。

 しかし、いまさらなぜ、今日、この古刹観音寺に導かれたのか不可解ではあった。

 散策を切り止めて、自坊に戻ると、連絡が入り、小生が世話になっている檀家の方が他界されたという。この檀家さんは目立たないながらも代々、殊の外、信仰心の篤い家柄で、寺の窮地を何度も救ってこられた檀家であった。さては、この一大事を如来さまがお知らせくださったのだと、枕経に望んだ次第である。