【全ての方々に遍照金剛光り輝くものの般若理趣を!】


ある晩のことであった。不思議な夢をみた。あまりにも色鮮やかで忘れがたい夢であった。

 山々をかき分けようやく辿り着いたところに、木々に埋もれた小さなお堂があった。
 誰もいない参道には五色の幡がきらびやかに風になびいて輝き、かすかな鈴の音が辺りを清らかにしている。
(こんな人里離れた山奥に、まさか、こんな寺があるとは思いも及ばなかった。)
お堂は戸があけ放たれていて風通しがよい。これからなにか厳かな法要が始まるのであろう。
 お堂の中は金色に輝きその光りが御堂から溢れ出ている。その神々しさはこの世のものとは思えぬほどであった。

 一体、ここはどこなのだろう。このお堂の中は、どうなっているのだろうと、邪魔にならないようにそっと近づいて覗いてみた。
 修法壇がある。その壇の四方をやはり小ぶりの五色の幡が色とりどりにはためいている。
 しかし、修法壇の中心より発している強力な金色の光り輝くものの正体はわからなかった。あまりにも神々しいのでよくはわからなかった。ただ、不思議に、そこから泉が湧くように、光が懇々とわき出でてくるようであった。
 しばらくすると、お堂の右手の上のほうで、人々の声がする。そちらの方へ目をやると、このお堂の裏山の右手に庫裏のようなものがある。庫裏の明かりがともされ、シルエットのように障子越しに人々の影が映りうごめいているのが見えた。
(ああ、そうか、もう夕暮れ時なのだなあ)と思いつつ、しかし、こんなところに人々が暮らしているとは・・・と驚くばかりであった。
 そこから、声がする。
 「ああ、よかった、よかったね。これでようやく、私たちも、この寺にずっとお仕えしてきた甲斐があったというものです。」という話しであった。
 人々の声の調子から、彼らが嬉々としていて、明るい雰囲気であることがうかがえる。

  はて、この人達は誰なのだろうか。彼らはいったいどうしてここにいるのであろうか怪訝に思ったが、ふと、どうも、この人達は代々この寺を護ってきた僧俗の一族であるに違いない。

 (そうか、ここは、古びた寺ではあるが、おそらく、昔この寺にで住んでいた人たちが、こうして、今もやはりここに来て祈りをささげているのであろう。)と、一人合点していた。

  「さあ、さあ、支度が整いました。みんなで降りていって、地上の人々に(ン?)ご加護を賜りますよう、張り切ってご本尊にお祈りを捧げましょう。」という声がした。どうやら、こちらのお堂のほうへ、石段を下りて来て集まるらしい。いったい、どんな方々なのだろう?
 そう思った途端、眠りから覚めてしまった。

 極彩色の夢を見るのは珍しい。しかも、かなり強烈で印象的で、その夢の記憶は数日間残っていた。

 というより、その不思議な光り輝くものの光景は四六時中離れないで、いまも、内心で耀いている。

 ある時、その夢で見た光り輝く源泉のようなものに焦点を合わせたかのように、一瞬ではあったが、心に反映した。それはなんと!後で調べると瑜祇塔であった。その瑜祇塔はボロブドールの寺院遺跡にも通じていて、なんと、伝説上の南天鉄塔に通じていると感受した。

 南天鉄塔の法門から本初不生の光りが渾々と溢れ出ている。

龍樹菩薩はこれを光り輝く遍照金剛ブッダの親説阿字本不生の法門を万人のために開示されたのだと思った。

 南天鉄塔の法門それはまた般若理趣の法門でもあった。

 金剛頂経も大日経も深淵でその蔵の鍵を開くことは至難のことであるが、衆生の菩提心に脈々と光り輝くものの神泉より尊いいのちの光りが渾々と湧き出でていることをなんとしても人々にお伝えすべきことと思ってこのページを投稿している。

 ブッダの経典の法燈は、これまでもこれからも小生の億千万倍も貴い天才的仏教学者や研究者、事相や教相の大阿闍梨によって護り受け継がれ解釈されていくものだ。

 だが、それだけでは、わたし自身が済まないのである。いま戦争しているならず者達を含め、いまをどう導くのか!このわたしのように、なすすべもないどころか、よそ事のように、自分の枠内で右往左往しているばかりであることに激しい憤りを感ずる。

 如来に問うた!わたしには残された時間はないのです。どうすればよいのでしょうと。無論、このような戯けた問いに如来が応えるはずはない。

 でも、あれは夢であったが、実在している感触がはっきり残っている。
 「本不生の理趣なる光りに触れた」この夢には何か深い思し召しがあるのであろうか。以下にその感受させていただいたものを記させて頂く。至らぬもので恐縮であるが、少しでもご縁のある方にご覧いただければ有り難い。

 下記は、昨年、生涯の法燈である『般若理趣経』を一般の方々にも、どうしてもお分かちせねばと、探究してきたものを、「原典」と「書き下し文」と「和訳」の経典として、先徳のものの一部からまとめさせていただき法座資料としてたものである。また、釈迦牟尼佛親説「本初不生」を骨子として般若理趣経をどう理解し、現代の問題に投げかけられているテーマについて探求を試みた。浅学非才のものの無謀なる試みではあるが、現代社会混乱にやむにやまれぬ思いで取り組んでいることをご理解いただければありがたい。https://drive.google.com/file/d/11Ni7XJRkbDJp10m552qUdf_C_EXb8djN/view?usp=sharing   これでは読み込むにはあまりにも大部なので、

今回、施本版『本初不生の理趣なる光りに触れて』という小生の感受したところを抜き出し再編集、要約を添えてあります。      

合掌